『なぜ日本はフジタを捨てたのか? 』富田芳和

埋もれていたフジタの資料

藤田嗣治、フランスに帰化した後の名、レオナール・フジタを知らない人はいないだろう。彼が、なぜレオナールを名乗ったのかについては、それに触れた文献はないようだけれども、私はひそかに、レオナルド・ダ・ヴィンチを意識していたのではないかと思っている。

よく知られていることだが、彼はフランスの地で名を挙げたのち日本に帰国して我が国の画壇で活躍するつもりであった。しかし第二次大戦中、軍部に協力して戦争画を多く描いたことから、公式には戦争犯罪人と指名されたわけではないにもかかわらず、また、当時の著名な画家たちには戦争画を描いた者が多数いたにもかかわらず、彼だけが、おそらくフランスにおける彼の名声をやっかんだ者たちによって指弾され、日本洋画壇に嫌気がさして、二度と日本に戻らぬ気持ちで海外に出たのである。

はじめに彼は、アメリカで仕事をする気であったようである。しかし、画廊での個展が成功したにもかかわらず、彼をファシスト呼ばわりするアメリカ画壇の一部の連中(べン・シャーン、国吉康雄など)の妨害にあって、「アメリカにいても面白くない」と、結局、フランスに永住する決意をする。このアメリカ行き、フランス行き、ともに敗戦直後の我が国では、個人の力では難しく、GHQの関係者、フランク·シャーマンなる人物の助力を受けたのであった。

フジタについてこれまで書かれた文献では、このフランク·シャーマンについて詳しく触れたものはなかったところ、このたび静人舎から、富田芳和氏によって『なぜ日本はフジタを捨てたのか?』が出版された。著者は、伊達市に埋もれていたシャーマン・コレクションを発掘し、これまで知られていなかったF・シャーマンという人物に光を当ててフジタとの関係を詳細に叙述している。それだけではない。フジタ排斥の背後にいた梅原龍三郎、安井曽太郎など、あるいは横山大観の戦争責任などにも言及し、さらには、巨匠と呼ばれる日本の洋画家たちの我が国だけでしか通用しない評価などにも辛辣な筆を揮っていて、日本洋画壇の裏面史ともいうべきものとなっている。以下に、本書の帯に書かれているところを引用しよう。

「絶体絶命の世界的画家を救った一人のアメリカ人がいた。フランク・エドワード・シャーマン。しかし、その名は日本の戦後史から塗り消されてしまう。日本人が目を背けてきた不都合な真実が、秘蔵資料から今明らかになる。」

個人的なことながら、私は、フジタの最後の作品である、ランス郊外の「ノートルダム・ド・ラ・ペー」のフレスコ画を見たことがある。多くの聖人たちに混じって、フジタ自身も描かれているが、その顔はどこか寂しそうであり、帰化しても、キャソリックになっても、フジタは日本人であることを捨てられなかったのではないか、との印象を受けたのであった。(平井一雄)

『澁澤龍彦 ドラコニアの地平』世田谷文学館編

澁澤龍彦の世界

昨年末、「澁澤龍彦 ドラコニアの地平」展を世田谷文学館に見に行った。没後30周年の大回顧展、とある。人影もまばらでありがたい。残念ながら世田谷文学館は交通の便があまりよくないのである。

澁澤の書いたものは私には読んで楽しく、触発されるところも多くて、中野定雄·中野里実·中野美代訳『プリニウスの博物誌』(雄山閣)や小倉斉·高柴慎治訳注、石川鴻斎著『夜窓鬼談』(春風社)などの書物を買い込んだのも、そのおかげである。ついでながら、ポール·デルヴォーの裸体の女の妖しい美しさに目を開かれたのも、澁澤の一文を読んだことによる。

私はここで、澁澤龍彦の仕事について論評するつもりもないし、その資格もない。一つには、彼の文章の対象ははなはだ広くて、それに追いつけるだけの当方の知識が欠如しているということもある。ただ、前記『夜窓鬼談』において、訳注者の一人高柴慎治氏が巻末の「『夜窓鬼談』の世界」のなかで、澁澤の作品、具体的には『ねむり姫』と『うつろ舟』に収められたそれぞれ二篇の短編と『夜窓鬼談』にある四つの「鬼談」とが対応することを指摘されたあと、「しかし、澁澤の作品は、いわゆる『再話』ではない」と説かれていることを述べておきたい。高柴氏の分析により、澁澤は種となる話を文献から拾ってくるが、それを育てて自分の創作としてゆく過程が具体的にわかるところがあるからである。

百科全書的に知識が多いということは、読書量が多いということを意味する。このことについては、世田谷美術館の館長である酒井忠康氏の『片隅の美術と文学の話』(求龍堂)を引用させていただこう。

酒井氏は、澁澤とおなじく鎌倉に住んでおられるので、生前の澁澤を街で見かけられたという。澁澤はめったに外出しないから、本はもっぱら鎌倉の馴染みの書店に注文していたそうである。酒井氏は、偶然にその書店で澁澤の注文書のコピーを入手されるのだが、彼が、「一か月に読む本は、リストのもので二十冊か三十冊、いや、もっと多いかな」と言っていたということも知られるのである (「澁澤龍彦の最後の注文書」)。

注文した本を読むだけではない。すでに書棚に収まっている本を読み返すということであろう。世田谷文学館で手に入れた前掲「回顧展」の公式カタログと銘打たれた書物(平凡社)によれば、澁澤は昼夜逆転の生活をしていたらしいから、読書はもっぱら夜であったと思われるが、それだけではない、当然に執筆の時間、それはおそらく読書よりも時間を割かれなければならなかったであろうに、この読書量には驚くほかはない。

この公式カタログでは、没後すぐに出版された『高丘親王航海記』についての、菅野昭正氏の論考「『高岳親王航海記』讃」が出色のものと私には感じられた。さっそく書棚から同書を引っ張り出して、再読したこと、澁澤の書物は、その多くが箱入りで装丁に気を配っているのだが、あらためて、同書の装丁を愛でながらであったことを記しておきたい。

平井一雄

『山田さんの鈴虫』庄野潤三

二度と戻らない「今」の物語

多摩丘陵の山の上にある庄野邸を中心とする半径ほぼ百メートル圏内が、とりあえずこの物語の中心舞台です。庄野潤三と「妻」、それに独立した三人の子どもたち、生田(川崎市北部)の町の人々が、まるで風景画のなかの点景のように描かれます。

庄野が亡くなったのは平成21年のことでしたが、その十年ほど前、脳出血で倒れ、それ以来、一日三度の散歩を欠かさず続けていました。はじめのころは「妻」が付き添い、それが杖になり、そして最後のころは、一人でゆっくりゆっくり歩いていました。その文章のように。「山田さんの鈴虫」は、そのころの作品です。

就寝前のハーモニカは、散歩と同様、大切な日課のひとつ。「私」の吹くハーモニカに合わせて「妻」が歌います。終わったとき、「『いい歌だな』『いい歌ですね』と二人でたたえる」。

安岡章太郎から届けられたポンカンを食べたときも、「『おいしいな』『おいしいね』と二人で感心しながら頂く」。

騒がしく揺れ動いている世間はここにはありません。ストーリーらしき起伏もなく、淡々と家族、町の人々、ご近所の山田さんからいただいた鈴虫や自然との交流を綴った文章が流れてゆきます。たちどころに消えて、次の瞬間にはこの世からなくなり二度と戻らない「今」をいとおしむかのように。

『生きていることは、やっぱり懐かしいことだな』という感動を与える小説を書きたい」──と、著者はかつてエッセイで書きました。 「入江さん(庄野の知人の画家)は決して人目を惹きつけようという絵はおかきにならない。ただ、ご自分の好みに合った風景だけをとり上げてかかれる。そこがいい」──は本書の中の一説ですが、はからずも著者の文学観がポロリと顔をのぞかせています。

余談ですが、私はそのころ、庄野邸のすぐ近く(50mも離れていませんでした)に住んでいて、散歩する姿をよく目にしていました。お近くだったということもあり、当時、私は庄野の作品をよく読んでいました。『プールサイド小景』のような初期の代表作はもちろん、生田の町に暮らす日々をゆったり描いた晩年の作品まで。自分の住む町の景色や見知った人々と作品の中で再会する妙な感覚を楽しんでいたのだと思います。

と同時に、私は庄野の文章から多くのことを学ぼうとしていました。そのころの読書ノートには、随筆集『自分の羽根』(講談社文芸文庫)から次の一節が描き抜かれていました。庄野が子供と羽根つきをしたことから得た「文学的感想」の一節から。

「私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かで読んだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとって痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとって何でもないことは、他の人にとって大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである」

最近ではすっかり忘れてしまった、「書く」ことの基本に立ち返らせてくれる文章です。

                               馬場先智明

『青いバラ』最相葉月

「青いバラ」最相葉月 著 小学館

 

 

 

 

 

 


それを美しいと思いますか?

花ならばすべて好きと言いたいところだが、嫌いとまでは言わないにしても、好きになれない花もある。たとえば、カトレアは好きだが胡蝶蘭は好きではない。花の好みは人それぞれで、「花のない生活など考えられないわ」と言っていた花好きの家内は、私とは違ってどちらかといえば派手な花よりも地味な花々、虎の尾、貝母、野牡丹のような花を好んでいた。その家内も今は亡くなって、私が家に花を飾る役目となったが、これは私の好みが出ることは致し方ない。比較的安価で見栄えがするので百合が主になる。色のついた百合は好まないので、カサブランカとかシベリアが玄関の花瓶に活けられることが多い。私が家を花で飾るのは、家内が亡くなったあとも、できるだけ生前と同じように生活していきたいという思いもある。

私が初めに美しさに魅かれた花は薔薇であった。フランスのメイヤンが作出したピースが園芸種として出回ったころで、柄にもなく庭に植えてみたが、数年経つと見る影もなくなってしまう。薔薇ほど手の掛かる花はない。肥料、水やり、防虫、剪定と毎日掛かり切りでなければ良い花は望めないのである。塚本邦雄は、『百花遊歴』(文藝春秋)の「薔薇」の項で、「薔薇の主たる品種一通り植ゑるなら、すべてを廃してひたすらこの女王に仕え奉る園丁とならねば、結果は知れているのだ。だから私は薔薇を植えない。そして週に一度花店を訪れて一抱えほど買ってくる」と書いている。

しかし、塚本大人の言ではあるけれども、「専門の薔薇栽培人が営利のために飼ひ馴らした、無慙に美しい薔薇」は、たとえ見る影もないような花であっても、自らが庭で作った薔薇とは、あの馥郁とした透明感のある香りに劣るように思われる。塚本は言う。「鮭紅に檸檬黄、純白に臙脂。青を除けばどんな色でも手に入る」と。たしかに、薔薇には青の色は許されていないのである。

塚本のこの本が出たのは1979年のことだが、それ以後になって、遺伝子組み換えの技術を使って青い薔薇の作出が試みられるようになった。青薔薇の作出の苦心を描いたのが、最相葉月の『青いバラ』(岩波現代文庫)である。

最近では、青い薔薇は商品となっているけれども、1本だけをケースに入れて美しく包装して売っている。珍しいもので高価だから贈り物としてお使いくださいというのであろう。青い薔薇と称しているのだが、紫の色合いがどこかに残っているような本当の青とはいいかねるようである。花の色は、というよりも、すべての色は三原色からなりたっている。

一つの種の花には、そのうちの二色を使うことは許されているが、三色すべてが許されていることは自然のなかではまずないことである。青い薔薇は、神の手によっては産み出されず、人の手によってのみしか産み出されない。そして、本当の青い薔薇が作出されたとしても、『青いバラ』の著者最相氏が新潮文庫版あとがき(岩波現代文庫にも所収)で引用している、薔薇の栽培家として著名な鈴木省三氏の「青いバラができたとして、あなたはそれを美しいと思いますか」という言葉を深く味わってみるべきではないかと思うのである。

                                 平井一雄