『山田さんの鈴虫』庄野潤三

二度と戻らない「今」の物語

多摩丘陵の山の上にある庄野邸を中心とする半径ほぼ百メートル圏内が、とりあえずこの物語の中心舞台です。庄野潤三と「妻」、それに独立した三人の子どもたち、生田(川崎市北部)の町の人々が、まるで風景画のなかの点景のように描かれます。

庄野が亡くなったのは平成21年のことでしたが、その十年ほど前、脳出血で倒れ、それ以来、一日三度の散歩を欠かさず続けていました。はじめのころは「妻」が付き添い、それが杖になり、そして最後のころは、一人でゆっくりゆっくり歩いていました。その文章のように。「山田さんの鈴虫」は、そのころの作品です。

就寝前のハーモニカは、散歩と同様、大切な日課のひとつ。「私」の吹くハーモニカに合わせて「妻」が歌います。終わったとき、「『いい歌だな』『いい歌ですね』と二人でたたえる」。

安岡章太郎から届けられたポンカンを食べたときも、「『おいしいな』『おいしいね』と二人で感心しながら頂く」。

騒がしく揺れ動いている世間はここにはありません。ストーリーらしき起伏もなく、淡々と家族、町の人々、ご近所の山田さんからいただいた鈴虫や自然との交流を綴った文章が流れてゆきます。たちどころに消えて、次の瞬間にはこの世からなくなり二度と戻らない「今」をいとおしむかのように。

『生きていることは、やっぱり懐かしいことだな』という感動を与える小説を書きたい」──と、著者はかつてエッセイで書きました。 「入江さん(庄野の知人の画家)は決して人目を惹きつけようという絵はおかきにならない。ただ、ご自分の好みに合った風景だけをとり上げてかかれる。そこがいい」──は本書の中の一説ですが、はからずも著者の文学観がポロリと顔をのぞかせています。

余談ですが、私はそのころ、庄野邸のすぐ近く(50mも離れていませんでした)に住んでいて、散歩する姿をよく目にしていました。お近くだったということもあり、当時、私は庄野の作品をよく読んでいました。『プールサイド小景』のような初期の代表作はもちろん、生田の町に暮らす日々をゆったり描いた晩年の作品まで。自分の住む町の景色や見知った人々と作品の中で再会する妙な感覚を楽しんでいたのだと思います。

と同時に、私は庄野の文章から多くのことを学ぼうとしていました。そのころの読書ノートには、随筆集『自分の羽根』(講談社文芸文庫)から次の一節が描き抜かれていました。庄野が子供と羽根つきをしたことから得た「文学的感想」の一節から。

「私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かで読んだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとって痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとって何でもないことは、他の人にとって大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである」

最近ではすっかり忘れてしまった、「書く」ことの基本に立ち返らせてくれる文章です。

                               馬場先智明

読書の楽しみ

なんのために本を読むのだろう?
一言にしていえば、楽しいからである。その点では、野球を観戦し、映画を見、美術を鑑賞したりするのと変わらない。もうひとつ共通するところがある。それは、自分では、対象を創り上げることに参加していないことである。読んでいておもしろくなければ、いつでも本を閉じて書棚にしまい込むことができる。スポーツの観戦や映画・絵画の鑑賞でも、観ていておもしろくなければ、いつでも途中で退場(退館)することができる。つまり、無責任でいられるのである。後悔は、こんなものに本代を払ったのか、こんなものにチケット代を払ったのか、という思いだけで済む。
他方、自ら対象を作り上げることに参加することは、まったく異なる。試みに、自分で本を書く、自分で絵を描くという場合を想像してごらんなさい。趣味でそれをしようという場合ではない。これはいつでも放り出せるから無責任でいられるが、それで食べていくという場合を想定しているのである。ひとかどの作家、絵描きになるには、どれほどの苦しみや葛藤に耐えねばならなかったか。
私が才能に溢れた文筆家と信じている薄田泣菫は、「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし」と洒落のめしていたが、貧苦のうちに若くして亡くなった。『美術年鑑』によれば、いまでは号1千万円以上に評価されている青木繁も、貧しいままに若死にしているのである。もっとも、これらの人たちも、文を書くこと、絵を描くことが楽しかったとは思う。しかし、それは、無責任の楽しさでは決してなかったはずである。
言いたいことはおわかりと思う。つまり、読書は、無責任に楽しめることが楽しいのである。だから、手に取って、頁をパラパラとめくって、興味を惹かなさそうだ、おもしろくなさそうだと感じた本は読まなくてもよいのである。その結果、読書範囲に偏りが生じても、気にすることはない。
人生とは何ぞやとか、人生かく生きるべきであるとか、その手合いの堅苦しい本は、そちらの分野に興味がある殊勝な方は別として、我慢して読む必要はない。古来このような本は汗牛充棟とされるほど出版されているが、昔に比べて人生が明るく生きがいのあるものになったとは思えない。
人生は、さまざまなことから学べるのであって、楽しく読んだ書物からすら、それとは知らずに学ぶことができるのである。

平井一雄