読書の楽しみ

なんのために本を読むのだろう?
一言にしていえば、楽しいからである。その点では、野球を観戦し、映画を見、美術を鑑賞したりするのと変わらない。もうひとつ共通するところがある。それは、自分では、対象を創り上げることに参加していないことである。読んでいておもしろくなければ、いつでも本を閉じて書棚にしまい込むことができる。スポーツの観戦や映画・絵画の鑑賞でも、観ていておもしろくなければ、いつでも途中で退場(退館)することができる。つまり、無責任でいられるのである。後悔は、こんなものに本代を払ったのか、こんなものにチケット代を払ったのか、という思いだけで済む。
他方、自ら対象を作り上げることに参加することは、まったく異なる。試みに、自分で本を書く、自分で絵を描くという場合を想像してごらんなさい。趣味でそれをしようという場合ではない。これはいつでも放り出せるから無責任でいられるが、それで食べていくという場合を想定しているのである。ひとかどの作家、絵描きになるには、どれほどの苦しみや葛藤に耐えねばならなかったか。
私が才能に溢れた文筆家と信じている薄田泣菫は、「筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし」と洒落のめしていたが、貧苦のうちに若くして亡くなった。『美術年鑑』によれば、いまでは号1千万円以上に評価されている青木繁も、貧しいままに若死にしているのである。もっとも、これらの人たちも、文を書くこと、絵を描くことが楽しかったとは思う。しかし、それは、無責任の楽しさでは決してなかったはずである。
言いたいことはおわかりと思う。つまり、読書は、無責任に楽しめることが楽しいのである。だから、手に取って、頁をパラパラとめくって、興味を惹かなさそうだ、おもしろくなさそうだと感じた本は読まなくてもよいのである。その結果、読書範囲に偏りが生じても、気にすることはない。
人生とは何ぞやとか、人生かく生きるべきであるとか、その手合いの堅苦しい本は、そちらの分野に興味がある殊勝な方は別として、我慢して読む必要はない。古来このような本は汗牛充棟とされるほど出版されているが、昔に比べて人生が明るく生きがいのあるものになったとは思えない。
人生は、さまざまなことから学べるのであって、楽しく読んだ書物からすら、それとは知らずに学ぶことができるのである。

平井一雄